研究アプローチ①第2回研究会(2011.1.8)

法政大学国際日本学研究所の「国際日本学の方法に基づく<日本意識>の再検討—<日本意識>の過去・現在・未来」プロジェクトのアプローチ1「<日本意識>の変遷—古代から近世へ」
第2回研究会 報告

アプローチ1「<日本意識>の変遷—古代から近世へ」
2010年度 第2回研究会

日時   2011年1月8日(土)13:00〜17:00

会場   法政大学市ヶ谷キャンパス58年館2階 国際日本学研究所セミナー室

司会  田中 優子(法政大学社会学部教授)

 

司会:田中優子教授              発表:小口雅史教授

 

               

   発表:鈴村裕輔客員学術研究員     発表:高橋寿美子客員学術研究員

     会場の様子

去る2011 年1 月8 日(土)13:00 〜 17:00、法政大学国際日本学研究所セミナー室において、研究アプローチ1第2回研究会が開催された。今回は、前年にアルザス・シンポジウムで講演をおこなったその内容を軸に、日本国号の起源、および近代の政治思想のありようを、国内の研究者に投げかける発表であった。なお本アプローチでは、国際日本学インスティテュートの博士後期課程学生で国際日本学研究所学術研究員である者や、博士号取得者で研究所客員学術研究員である者に、積極的に研究に参加してもらう方針をとっている。今回はその中の二人より、近代思想、近代文学からの問題提起をしてもらった。報告の概要は以下の通りである。

 小口雅史(法政大学文学部教授)による『国号「日本」(にっぽん)「日の本」(ひのもと)の起源とその意味』では、「ひのもと」の意味について、現在出ている議論を紹介しながら、問題提起がおこなわれた。
戦後、天皇制の議論はあったが、国号の議論はなかった。網野善彦は、天武朝に「日本国」が出来たと論じているが、
中世では「日本」ではなく「大日の本国」と言われた時代もあった。日本という呼称は国辱的なものであったとも言われる。従って現在の「日本」という呼称についても、改めて国民的合意を形成する必要があるのではないか、という議論も存在している。
中世の資料には「日の本将軍」という称号が出現する。これは蝦夷地の将軍つまりアイヌを支配する北日本の支配者、
という意味で使われる場合と、日本全体の将軍という意味がある。「日の本」とはこの場合、日本の北方という意味と、中国から見た場合の「東にあるもう一つの中心」という意味になる。後者で考えると、中国から自立しようとする強烈な国家意識がうかがえる。自立の意識ということから言えば、ヤマトに対する東方世界(具体的には蝦夷地)を中世では「日の本」と呼んだ、という仮説がある。
しかし「日本」という言葉に辺境意識はなかったのか? 701年の直前あたりに、「倭」という言葉が嫌われ「日本
」という言葉ができた。東の天皇、西の皇帝という意味があり、日本が単純に「東の国」という意味であるなら辺境の意味は無いが、それは真実か?それと同時に、「日本」が他称か自称か、という問題もある。「東夷の極」の意味をもって中国によって名付けられた「日本」を、日本人は受け入れたのではないか。日本は唐を蛮国とはせず「隣国」と位置づけ、自ら東夷の極という位置を受け入れ、日の本は形成された、と考えられる。また日本の中でも、東北異域の意味で「日の本」が設定されていた。

 鈴村裕輔(法政大学国際日本学研究所客員学術研究員)『戦間期における石橋湛山の日本意識』は、石橋湛山が日本をどのようにみていたか、日本のあるべき姿をどのように考えていたか、日本の現状をどのように理解していたか、という三点を軸に展開した。それぞれについての湛山の考えは、第一に、国家は一つの事業体であること、第二に、その国家は小日本主義をとるべきであること、そして第三に、決して日本は東洋の盟主とはならないこと、であった。
湛山の考えでは、植民地交易に比べ対等な貿易の方が経済的には有利であるならば、植民地は手放すべきであった。日
本の政策をそのような合理的な経済の方向に転換することで、他の植民地利用国が、有徳の日本を模範にするような国にすべきである、と湛山は考えていた。日本の文明は欧米の文明をもとにし、独自の理想をもっていなかったが、そのことをみつめつつ、湛山は、当時の神話的な国家観とは正反対の、合理的な「企業体」としての国家観を持っていたという。

高橋寿美子(法政大学国際日本学研究所客員学術研究員)『「日本近代文学」成立過程における異文化の興亡──「江戸」対「非江戸」』では、日本近代文学史からもれた明治文学の潮流が詳しく紹介された。その潮流とは、「江戸風文学」である。江戸風文学の特徴は「洒落ッ気」であった。それは江戸文人が江戸でおこなっていた文学および会合の特徴である。この特徴は明治になると、東京出身者によって担われた。しかしそのような「遊びの要素」を失うことによって、近代文学は成立した。それは、文学者の地位が低く、近代化にともなって芸術としての文学を作り上げる必要に迫られたからである。地方から東京に出てくる人々にとって江戸文学は不真面目に思えた。近代化の動きのひとつに、地方から東京への人の移動も考えるべきで、そのような観点から文学史の見直しが必要である。
さらに議論では、『ぼっちゃん』に見える佐幕派や会津藩、明治維新の敗北者への鎮魂などのテーマについて意見が出
たほか、文壇に見られる人の関係や社会の構成、下級武士の世界へも注目が必要であること、また、当時の漢詩文の広がりをどう考えるかなど、様々な意見交換があった。東京集中が起こり、上方が凋落し、国家のかたちが変わるとき、日本意識にどういう変化があったかは、今後の課題である。

 またこの後、各時代でどのようなテーマと取り組むことが可能か、様々な案が出された。古代では、宗教観念、漢文の共有と各国の文化、大陸から導入された音楽、言葉、服飾、律令における日本独自の展開を、具体的に研究可能である。

中世では注釈書研究、『三国伝記』などの物語研究が必要で、近世では年表や地図、統治法などが今後の課題として出された。また研究に際して考慮すべき現代の課題として、ナショナリズムと日本意識の違いについても考えておく必要があることや、ノンフィクション、各種日本文化論や時代小説研究なども、研究対象にしてよいのではないか、という意見が出た。

【記事執筆:田中 優子(法政大学社会学部 教授)】