研究アプローチ③第9回東アジア文化研究会(2010.12.8)

「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の過去・現在・未来」

研究アプローチ3「〈日本意識〉の現在−東アジアから」

2010年度 第9回東アジア文化研究会

「忘れられた近代インドと日本の交流

 

報告者:ブリジ・タンカ(インド デリー大学東アジア研究科教授)

日時:2010年12月8日(水)18時30分〜20時30分

場所:法政大学市ヶ谷キャンパス58年館2階 国際日本学研究所セミナー室

司会:王 敏(法政大学国際日本学研究所 教授)

 

   ブリジ・タンカ   教授            王 敏 教授

       会場の様子 

                                

忘られた近代インドと日本の交流

19世紀末、世紀が変わろうとするころ、人気雑誌『探検世界』は、探検と冒険についての特集を組んだ。そこには、虎狩り、異習、三ツ目人種の国というような、奇怪で異国的なものについての読み物が収録された一方で、数世紀にわたる鎖国のあとに眼前に開かれた世界に関する記事も含まれていた。もちろん、徳川時代の防壁の隙間から情報が入り込むことはあっただろうが、学者や学生そして多数の一般の人々が海外に旅行し世界を直接経験するようになったのは、やっと明治維新後のことだったのである。徳富蘇峰は、1950年代に書いた大谷光瑞についての著書において、その探検精神を讃えている。大谷光瑞は、西本願寺の法主にして、中央アジア探検において大きな役割を演じた人物である。徳富は、大谷をこうして讃える一方で、このような大胆な夢想家たちのことを、日本人がこぞって忘れ去ってしまったと不満をもらしている。徳富にとって、こうした探検は、日本の植民地化の動きの一部というよりは、徳川時代に長らく抑えつけられていた、探究心と冒険心をあらわすものなのであった。

それまで読んで聞きおよぶばかりであったものを発見したこれらの探検家たちは、どのような人物だったのだろうか。また、彼らをかきたてたものはいったい何だったのだろうか。これらの旅行と探検の数々は、近代日本の歴史とより広い世界との関係を明確にするためのプロジェクトの一部だったというのが本報告の主張である。このような探検の試みは、日本が植民地帝国を建設するためにおこなった戦争の影にかくれ忘れさられることになった。実際のところ、多くの探検の試みは、帝国建設の動きの一部であり、それを正当化する役割になったのである。しかしながら、このように歴史を後ろ向きに記述することには、実際におこったことがすべての行為の必然的な帰結だと見たててしまうという危険がともなうため、こうしたことを誇張しすぎないよう心がけておかねばならない。

本報告では、19世紀から20世紀への世紀の変わり目における、日本人とインド人の交流について検討する。それによって、日本が世界と結んだ複雑な関係を理解するさまざまな方法について考えたい。日本の近代史は、いわゆる西洋との接触という枠組みの中で語られてきた。この枠組みのなかでは、西洋以外との関係はすべて二次的で周辺的なものとみなされ、その近代史は支配的(ヘゲモニック)な西洋の世界観によって形づくられた。18世紀末以来の政治的・社会的混乱は、外来の様々な思想と格闘するような、新たな思想潮流をうみだした。これらの思想潮流は、日本の近隣でヨーロッパによって行なわれていた戦争をいかに理解しそれに立ち向かうかという問題にも取り組むことになり、そのため「西洋」と「東洋」という枠組みについて理解する必要が生じたのである。

インドと日本の交流をみると、これらふたつの民族が手を結ぶためのさまざまな動機と、相互理解がいかにかたちづくられたかが明らかになる。相異なる要因に駆り立てられた、こうした潮流は、インド人と日本人のあいだに、密接で知的刺激にみちた交流を生じさせた。このあまりかえりみられない歴史には、未来に向けての示唆を見出すことができる。この交流の歴史には、象徴的な4つの回路があった。そのひとつめは、アジアに文明をひろめたインドの役割を吟味し、それが新たなつながりの形成のためにどう役立つかを探求する営為から形成された。ふたつめには、ラビンドラナート・タゴールと岡倉天心の実り豊かな出会いとそれをとりまく展開である。3つめは大谷光瑞と日本人仏教徒たちの仏蹟調査に代表される。そして4つめは日本とその他のアジア各地に協力者を求めるナショナリストたちと革命家たちのものである。

これらの旅行や知的冒険は、錯綜するさまざまな回路のなかで行なわれたものである。イギリスの植民地システムは、インドの拠点から、香港や中国の条約港へとその手を伸ばしていた。これは、19世紀末以来の、東アジアと東南アジアをむすぶ、東京を中心とした植民地の秩序と重なり、緊張を生んでいた。これらの回路は、じつは西洋中心の枠組みのなかに包摂されるものであった。自らを近代的であるとする日本の主張は、西洋の言説の枠内で組み立てられたものだったのである。しかし、当時のインドがひとつの重要な要素として役割を演じていたアジアは、西洋の植民地支配からの解放のレトリックを形成する中心となっていた。インドにおいては、自らの優越性を主張する際には、寛容で非暴力的な文化帝国としての過去に基礎がおかれ、その主張はヒンドゥー・インディアの復活の理念に接続された。さらに、それはより広範な連帯を希求する欲望を形成したのである。

【報告記事:ブリジ・タンカ(インド デリー大学東アジア研究科教授)】