研究アプローチ③第6回東アジア文化研究会(2010.10.5)

「国際日本学の方法に基づく〈日本意識〉の再検討−〈日本意識〉の過去・現在・未来」

研究アプローチ3「〈日本意識〉の現在−東アジアから」

2010年度 第6回東アジア文化研究会

「自由」はいかにして東アジアへ伝えられたか

     -洋学に転じた中村正直

 

報告者:平川?弘(東京大学 名誉教授)

日時:2010年10月5日(火)18時30分〜20時30分

場所:法政大学市ヶ谷キャンパス58年館2階 国際日本学研究所セミナー室

司会:王 敏(法政大学国際日本学研究所 教授)

平川 教授              王  敏 教授

20101005-3.jpg

    会場の様子                                 

日本と中国との比較近代化論の上で興味深いのは、日本で強烈なインパクトを与えた西洋からの最初の翻訳が中村正直(1832-1891)の手になる『西国立志編』(1871)であったのに対して清末の中国で強烈なインパクトを与えた西洋の最初の翻訳がオルダス・ハクスリー赫胥黎の厳復(1853-1921)によるEvolution and Ethics の翻訳『天演論』(1898)だったということであろう。厳復は中村より21歳年下で、イギリスへ留学したのは中村より9年後の1877年、『天演論』は『西国立志編』より二十七年遅く1898年(光緒24年)に出た。日清戦争で清国の国民に危機意識が生じて外国のことを知ろうとした。そのときにハクスリーの書物に示された社会進化論、ソーシャル・ダーウィニズムが中国では西洋列強の強引な帝国主義的進出を解き明かすものとして読まれたということであろう。

『西国立志編』と『天演論』二つの書物を要約する言葉は「天ハ自ら助クルモノヲ助ク」Heaven helps those who help themselves と「物競ヒ天択ブ、適スル者ノミ生存ス」survival for the fittestの二つである。『西国立志編』は自由競争の資本主義社会で生きのびるための訓えで『天演論』は帝国主義の優勝劣敗、弱肉強食の競争原理の訓えでもある。しかしこの二冊には決定的な違いがある。『西国立志編』には産業国家建設の見取図が示されていたが、『天演論』には清末中国の危機的状況を自覚させる分析は示されていたが、近代国家建設の処方箋は示されていなかったということで、それは中国にとっての不幸せであったといわねばならない。

さらに興味深いことは、中村も厳復もともに同じ John Stuart Mill, On Libertyを訳しているが、両国におけるその受容がはなはだ異なっていることである。最近區建英が『自由と国民 厳復の模索』という書物を東大出版会から出したが、中村と厳復についての比較はなされていない。私見では次のような並行例と相違例をあげることができる。

中村正直と厳復の二人はともに日中の最初期の英国留学生であった。中村と厳復は当時の世界の最強国の実例に接したことで、自国を西洋化というか近代化する必要を感じた。

中村も厳復も西洋の学問を学んだことで、帰国後、民智を啓き、国に富強をもたらす方策を考え、その一助として十九世紀英国思想家の著書をそれぞれ翻訳して啓蒙の資とした。

中村も厳復もミルのOn Liberty を中村は『自由之理』の名で1872年に日本語へ、一人は『羣己権界論』の名で1903年に中国語に訳した。そこまでは並行例が成り立つ。しかし翻訳の刊行が中国では31年遅れただけでなく、日本では『自由之理』は広く読まれ、明治22年の立憲君主制を定めた大日本帝国憲法の成立にも影響を与えたが、『羣己権界論』はそうした影響力はもち得なかったということである。

 ミルの句で印象的な言葉としては、六歳年長のミルを尊敬していたスマイルズが『西国立志編』の巻頭に引いた「一国ノ貴トマルトコロノ位価ハ、ソノ人民ノ貴トマルルモノノ、合併シタル位価ナリ」がある。原文はThe worth of a State, in the long run, is the worth of the individuals composing it. があげられる。「一国の価値は、長い目で見れば、一国を構成する個々人の価値の総体である」という意味である。昔から東アジアには国家の価値は重く見ても、それを構成する個々の人間の価値を重んじない国家指導者が多かった。孔子の時代から中国共産党が支配する今日まで、中国の政治の要諦は「民可使由之、不可使知之」「民ハ由ラシムベシ、知ラシムベカラズ」である。その民度の実態を知る人の耳にはミルの句は痛い。しかし民主主義国の政治の要諦は、「民ハ知ラシムベシ、由ラシムベカラズ」である。そんなミルの主張を中村はこういう言い方で伝えた、「国ニ自主ノ権有ル所以ノモノハ、人民ニ自主ノ権有ルニ由ル。人民ニ自主ノ権有ル所以ノモノハ、ソノ自主ノ志行有ルニ由ル」。自主の志行ある人こそが自助の人である。そのようなイニシアティヴに富む、価値ある個人が数多く出てこそ、自主自立の日本ともなりうる。

中村はそう主張したばかりではない。 1868年、明治元年に帰国した直後に執筆した『諸論』で、ミルの立憲君主制の考えを次々と具体例を引いて述べた。日本人は鴉片戦争における英国の勝利を英国には英邁な君主がいて良き臣が補佐しているからだと思っているが、西洋の実情はそうではない。「西国ノ君、大イニソノ智ヲ用フレバ、スナハチソノ国大イニ乱ル」という東洋人にとっては耳馴れない説を述べた。それはお上をないがしろにする不敬な発言にさえ聞こえる。しかしこれは逆説ではない。これこそがミルの『自由論』の考えなのである。中村は西ヨーロッパでは君主の権に限界が定められている実状を『諸論』の中で説明した。立憲君主は専制君主でなく、己の恣意では何事も決定しえず、法律に従い、議会の多数の意思を尊重し、内閣の意向に耳を傾けなければならない。

 ミルが説いたlibertyとは人間の自由意志を問題とする際の哲学的自由ではなく、市民的自由である。いいかえると、政治や社会という群によって個人、即ち己に対して合法的に行使される得る力の限界を論じたものである。それだからこそ厳復は翻訳に『羣己権界論』という題を訳につけたのだ。

 中村正直は1871年明治4年にはOn Liberty を『自由之理』と訳すことで「自由」の言葉に西洋語のlibertyの意味を吹き込み、日本語として定着させることに成功したが、厳復は同じ言葉を中国語で「自?」の字をあてて訳した。発音は自由と同じZiyouと読むが、この厳復が訳として選んだ「自?」の語が中国に定着しなかったのは中国における政治的自由、市民的自由の運命を暗示していると思われる。ミルにとって自由libertyとは「君主ノ暴虐ヲ防グ保障」である。そのミルの自由の思想は英語でいうと By Liberty, is meant protection against tyranny of the political leaders.「自由トハ、政治支配者ノ暴虐カラノ心身ノ安全保護ヲ意味スル」。毛沢東の人民中国に無かったもの、それはこの「自由」であった。

【記事執筆:平川?弘(東京大学名誉教授)】