研究アプローチ①特別研究会(2010.7.15)

日 時:2010年7月15日(木)18時30分〜20時30分

場  所:法政大学市ケ谷キャンパス ボアソナード・タワー25階 B会議室

講 演:渡辺 浩(法政大学法学部 教授)

司 会:安孫子 信(法政大学国際日本学研究所所長、教授)

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渡辺 浩 教授

渡辺浩教授(左)、安孫子所長、教授(右)

会場の様子

 

去る7月16日(木)、18時30分から20時35分まで、法政大学ボアソナードタワー25階のB会議室において法政大学国際日本学研究所の特別研究会が開催された。今回は、法政大学法学部教授の渡辺浩氏を迎え、「「いつから「国民」はいるのか—日本の場合」と題して行われた。

報告の主眼は、「明治時代以前に「国」という意識はなかった。あったのは「国=大名の領国」という意識だけである」あるいは「「国民国家」という概念は近代の捏造である」という単純な議論が誤謬の上に成り立っており、実は江戸時代にすでに「大名の領国」を越える、「一つの国としての日本」という意識が存在したことを明らかにすることであった。報告の概要は以下の通りである。

江戸時代では、確かに大名の領地が変わることを「国替え」と言い、参勤交代を終えて江戸から領国に帰ることを「帰国の御暇を賜る」と表現した。しかし、「和国」や「皇国」といった表現も用いられており、「国」という言葉が大名の領国を意味するだけではないということは明らかである。また、徳川政権は、同政権が成立したことを「豊臣の世に代わって徳川の世が始まった」という意味で、「開国」と称していた。ここから、江戸時代において、「国」という言葉には「大名の領国」、「日本国」、そして「ある政権の治世」という三重の意味があることが分かる。

また、元禄13(1700)年序の西川如見『日本水土考』に「万国は各々自国を以て上国と為して、しかも自国の説を用ひて自国の美を断ずる」とあるように、世界には「万国」があるという考えも既にあった。なお、「日本国」の範囲には、松前藩の領地以外の蝦夷地と琉球国は含まれないのが通例であった。そして、この「日本国」が成立しえた理由は、当時、「政治的統合」、「経済的統合」、「言語的統合」、「宗教的統合」があったからである。

その「政治的統合」は入念だった。すなわち「高度な訴訟社会」、「外国人の送還」、「全ての宗教施設は寺社奉行の支配下に置かれる」、「家職国家、家業国家」などがそれを示している。この仕組みによって、「訴訟を受け付け、判断を下す機構としての「お上」」、「「日本人」と「外国人」を分けることが可能」、「宗教権力の世俗権力に対する超越性を認めない厳格な統治」、「血統ではなく、家職、家業の連続性のみが家を構成する」という江戸時代の像が浮かび上がる。

一方、例えば『文明論之概略』において福沢諭吉が主張したような、「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」という考えは、「能動的な市民」が存在しなかったことに由来している。なぜなら、例えばイギリスの政治学者デヴィッド・ミラーは「ネーション」を「(1)共有された信念と相互関与によって構築され、(2)歴史の中で長期にわたる広がりを持ち、(3)その特性は能動的であり、(4)ある特定の領土に結びついており、そして(5)固有の公共文化によって他の共同体から区別された共同体である」と定義しており、その定義に従えば、江戸時代の日本には「能動的なネーション」以外の要素が全て備わっていたからである。このような状況を考えるならば、江戸時代の日本には、(1)国民(civic nation)は存在せず、(2)民族(ethnic nation)が存在したかどうかは、共通出自の意識が必ずしも一般的でなかったことの評価によって決まり、(3)臣民(subject)は存在した、ということができる。つまり、日本においては、「国民」の形成以前に「臣民」が存在していたのであり、「日本」や「日本人」といった概念が、「上からの統合」によって成立していたのである。

しかしながら、nationやethnicityについての議論は欧米の学者を中心として行われていることもあり、日本の学者自身も日本の事例を具体的な検討の対象として想定しない場合が多い。だが、nationやethnicity研究の分野においても、日本、さらに中国や朝鮮などを視野に入れることで、国際政治学や政治理論の進展にも寄与しうるであろう。

以上のように、江戸時代の文物や制度と徳川幕府の統治機構のあり方を丹念に検証することで、江戸時代における、様々な層の人が抱いた「日本」や「日本人」という観念を基に論証したのが、本報告である。

「国際政治学者や理論政治学者も、ヨーロッパだけではなく、日本や中国、朝鮮の歴史に学べば、より適切な理論を構築できるだろう」という指摘は、国際政治学や理論政治学ばかりでなく、様々な分野に応用されうる、きわめて重要でありながらわれわれが見落としがちな観点であるといえるだろう。

その意味でも、今回の報告は国際日本学の研究にとっても、またそれ以外の分野の研究にとっても、意義深いものであった。

【執筆者:鈴村裕輔(法政大学国際日本学研究所客員学術研究員)】