第7回東アジア文化研究会(2009.10.6)

学術フロンティア・サブプロジェクト2 異文化としての日本          

 

2009年度第7回東アジア文化研究会

   新しいペリー像・松陰像へのアプローチ

    -米国側の史料から見た下田密航の真相

報告者 陶 徳民 氏

 (関西大学文化交渉学教育拠点リーダー、同文学部教授)

§日 時:     2009年10月6日(火)18時30分〜20時30分  

§場 所:      法政大学市ケ谷キャンパス
          ボアソナードタワー 8F 0805教室

§司 会:     王 敏 (法政大学国際日本学研究所教授)

 

新しいペリー像・松陰像へのアプローチ−米国側の史料から見た下田密航の真相
関西大学文化交渉学教育研究拠点
リーダー 陶 徳民

(一)旗艦上の45分間

今年29日、首都ワシントンにあるアメリカ国立公文書館で海軍省関係のアーカイブを調査する時、ペリーの旗艦ポウハタン号の航海日誌第2巻(1853911-185497日)1854425日のページから、吉田松陰と金子重輔の下田密航に関係する記事を見つけた。記載者はポウハタン号の艦長W. J. マクルーニー大佐であり、記載内容と私なりの日本語訳は次の通りである。

 

Remarks of This 25 Day of April 1854

Shimoda

Commences at 2.45 two Japanese came on board by a small boat, remained about 3/4 of an hour, on getting aboard their boat got adrift & they were sent ashore in the S(Steamers) cutter by order of the Commo.(Commodore).

 ※括弧中の内容は括弧直前の略式表現を解読した結果

 

下田

(午前)245分、二人の日本人が小船で乗艦してきて、約45分間滞留した。乗艦した際、彼らの小船が漂失したため、提督の指示で本艦の小艇で岸辺へ送還された。

 

下田密航の際、松陰ら二人がいつペリーの旗艦に登り、どのくらい艦上に滞留して送還されたのかは、長い間謎であった。この記述は、何時何分という細部まで確定できる非常に貴重な史料である。現代の感覚なら、西暦425日未明に起きたこの事件を和暦で記載する場合、328日のことになるはずだが、しかし、密航失敗後の松陰は『回顧録』でそれを「三月二十七夜」の行動として記録した。江戸時代では一般的に午前零時ではなく、夜明けをもって一日の始まりとしていたからである。そして、旗艦上の一場面として、「時に鐘を打つ、凡そ夷舶中、夜は時の鐘を打つ。余曰く、日本の何時ぞ、ウリヤムス指を屈して此れを計る。然れども答詞詳かならず〔頭注:此の鐘は七ツ時なるべし〕」と記し、ペリーの首席通訳官S.W.ウィリアムズの尋問を受け、やりとりが最終段階に入ろうとした時間を「七ツ時」と推定した。当日下田における「日の出」時間で計算すると、「七ツ時」の始まりが約314分になる。とすれば、松陰の推定は330分に送還されたというマクルーニー艦長の記載と合致している。このことから、少年時代より萩藩の兵学師範(軍事教官)として育てられ、江戸において蘭学の師、佐久間象山の薫陶も受けた松陰の厳格な時間観念と優れた記憶力が裏付けられたと言えよう。

 

(二)「人道心」をめぐる松陰とペリーの攻防

 ところで、下田密航に関する従来の研究に一つの盲点があり、それは「人道心」をめぐる松陰とペリーの攻防という重要なポイントが見逃されたことである。アメリカ議会の公式文書である『ペリー艦隊日本遠征記』によれば、松陰(おそらく象山のアドバイスも得た)が密航成功のため、事前に渡している「投夷書」でも、旗艦上でやりとりの時にもアメリカ人の「人道心」に訴える戦略を取っていたという。すなわちウィリアムズがペリーの意思を受けて「2人が日本政府から許可を受けるまでは、受け入れを拒絶せざるをえないが、艦隊は下田港にしばらく滞在する予定だから、許可を求める機会は十分にあるだろうと言って聞かせた。提督の回答に2人は大変動揺して、陸に戻れば首を斬られることになると断言し、とどまることを許してもらいたいと熱心に懇願した。この願いはきっぱりと、しかし思いやりを込めて拒絶された。長い話し合いが続いた。彼らは自分たちを支持してくれるようあらん限りの議論をつくし、アメリカ人の人道心に訴え続けた。」と(F. L. ホークス編・オフィス宮崎訳『ペリー艦隊日本遠征記』栄光教育文化研究所、1997年、第1巻421頁)。注意すべきは、ここの「人道心」という表現は現代日本語の訳語であり、『遠征記』における英語の原語は“humanity”で、一方、「投夷書」に使われている漢語表現は「仁厚愛物之意」であった。

 いずれにせよ、松陰の戦略はある程度奏功したようである。ペリーは、日米和親条約締結直後で幕府との信頼関係が損なわれるおそれがあるため、松陰の密航要求を拒否したが、松陰の知的好奇心を非常に高く評価し、このような若者がいるのならば、将来、日本は先進国への仲間入りがきっと実現できるだろうと考えた。そして、約一週間後、下田獄に繋がれていた松陰の嘆願書(「第二の投夷書」と私は名づけたが)を知り、「提督は、2人の日本人が投獄されていることという報告を受けると、旗艦付副官を陸上に派遣し、2人が艦を訪れた者と同じ人物であるかどうかを非公式に確認させた。」しかし、松陰ら二人が副官の到着前に江戸に移送されたため、「哀れな2人の運命がどうなったのか、確かめることはまったくできなかったが、当局者が寛大であり、斬首という最も重い刑に処すことのないように望む。なぜなら、並はずれて残忍な日本の法典によれば大罪であっても、われわれには自由で大いに参照すべき好奇心の発露としか見えないからである。ちなみに、提督からの問いに答えて、当局が深刻な結末を懸念する必要はないと保証したことは、せめてもの慰めであった」(同上、423頁)。これによって見れば、「人道心」と「惻隠の情」が動いたペリーは、鎖国の禁令に触れた松陰の罪に対する日本の当局者の量刑を干渉したようで、しかも、斬首刑には処しないという約束を得たため、安心したそうである。

 

参考文献(拙稿)

「ペリーの旗艦に登った松陰の「時間」に迫る—ポウハタン号の航海日誌に見た下田密航関連記事について」関西大学『東アジア文化交渉研究』第2号、20083

下田密航前後における松陰の西洋認識-米国に残る「投夷書」をめぐって-」、藤原書店『環』第13号、2003年5月。

「下田獄における第二の「投夷書」について―松陰の覚悟に対するペリー側の共感-」、藤原書店『環』第14号、2003年7月

【記事報告:陶 徳民

(関西大学文化交渉学教育拠点リーダー、同文学部教授)】