第2回東アジア文化研究会(2009.5.19)

学術フロンティア・サブプロジェク2 異文化としての日本          

2009年度第2回東アジア文化研究会

「漢文力と日本の近代

   

報告者  佐藤 保 氏 

          (お茶の水女子大学名誉教授・                        

                     学校法人二松学舎顧問)    

§日 時:   2009年5月19日(火)1830分〜2030分 

§場 所: 法政大学市ケ谷キャンパス
           58年館2階国際日本学研究所セミナー室

§司 会:  王 敏 (法政大学国際日本学研究所教授)


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「漢文力」とは、中国語の文語(文言)文を日本語訓読法によって読みくだし、逆にまた、日本人が中国語の文語文で自分の意志や考えを表現できる能力をいう。すなわち、本来は外国語である中国文語文を日本語として自在に使いこなす力が「漢文力」である。その基礎は言うまでもなく訓読法であり、一般に、訓読が可能な文体、あるいはそのような文体で表現される作品そのものを、われわれは「漢文」と呼ぶ。

東アジア漢字文化圏では、日本以外の朝鮮やヴェトナムなどにもそれぞれの国語による訓読法が存在した(存在する)。いずれの国においても、中国の学術・文化を受容する過程で訓読法はさまざまな工夫が加えられて定着したもので、日本の場合は日本漢学や日本漢文学が最盛期を迎えた江戸時代に、今日通行する訓読の形ができあがった。

訓読を基礎とする漢学・漢文教育も江戸時代に最盛期を迎えた。幕府の学問所である昌平黌をトップに、各藩の藩校、漢学者や漢詩人たちの私塾・寺子屋などで、武士から庶民に至るまで幅広い層の人々が漢文を学び、日本人の「漢文力」は最高潮に達した。

明治になると、国家の教育方針をめぐって国学派・漢学派・洋学派の間で激しい主導権争いがくり広げられたが、結局、洋学派が勝利を得た。そのような風潮の中で、なお東洋の精神・倫理観を守るべしとする漢学派の私塾が各地に創られて、漢学・漢文教育は続けられた。例えば、三島中洲が明治10年(187710月に創設した漢学塾二松学舎は、開学当時のカリキュラムを見ると、初歩(三級)・中級(二級)・上級(一級)の各級が、さらに第三課から第一課まで細分されていて、それぞれの課程で学ぶ書物がこと細かにきめられていた。そこから江戸時代以来の伝統的な漢文教育の実態と、「漢文力」の継続を知ることができる。明治初期の漢学塾と漢詩・漢文の結社(詩社、文社)については、例えば木下彪『明治詩話』(文中堂・1943年)などに詳しい。

「日本の近代」は、長年の鎖国をといて国際舞台に登場した日本が、列強と肩を並べる強力な国家を作ることにあった。いわゆる富国強兵策である。そのためには海外事情と新知識を吸収することが急務であった。幕末から明治にかけて刊行された「官板海外新聞」(文久2年〈18623月刊)や「西洋雑誌」(慶應3年〈186710月刊)などは、海外の事情を伝える新聞・雑誌のごく一部である。

ところで、当時の日本人がこれらの情報源どこ(なに)から得たかといえば、意外にも漢訳(中国語訳)文献から得たものが決して少なくなかった。もちろん、その頃でも欧米の言葉を理解する人がいなかったわけではない。鎖国中に長崎まで行ってオランダ語の習得に努力した人をわれわれは多く知っているし、幕末に海外に派遣された留学生もいたのであるが、しかし、情報の多くは中国語に翻訳された欧米の文献と中国人の著述によって得たものの方がはるかに多い。このような中国語の文献であれば、「漢文力」のゆたかな当時の日本人は、読解にさほど苦しむことはなかったのである。この辺の事情の先駆的な研究は、中山(中村)久四郎の「近世支那より維新前後の日本に及ぼしたる影響」(史学会編

『明治維新史研究』所収、冨山房・1929年)と「近世支那の日本文化に及ぼしたる勢力影響」(『史学雑誌』第25編第2号、19142月)である。中国では、梁啓超の『西学書目表』(洋務報館、光緒廿二年〈1896〉)がある。

一例を挙げれば、『西学書目表』(中巻)「法律」の項に、米国・惠頓(Weaton)著、丁韙良(W.P.A,Martin)訳の『万国公法』以下13点の書物が著録されているが、この『万国公法』は国際法の文献として、当時、中国や日本で広く読まれた書物であり、慶應元年(1865)には幕府の開成所から和刻本が出版された。いま、国立公文書館(旧内閣文庫)をはじめ大学図書館等、多くの図書館・研究機関に所蔵されている。

「漢文力」が「日本の近代」に役だったもう一つの例は、外交分野における例である。最初の清国外交団が来日したのが明治10年(1877)の年末、近代になって初めて学殖ゆたかな中国知識人を迎え、まずは日本の漢学者や漢詩文作家たちは欣喜雀躍した。その際にお互いの意思疎通に用いられたのが漢文による筆談であった。筆談は文人たちの余暇の閑談にとどまらず、正式な外交の場において用いられることも決して少なくなかった。

漢学者が外交の場で一種の通訳の役割を演じたのは、これ以前にも朝鮮通信使との交渉の場に漢学者が加わることがあったのであるが、これは東アジア漢字文化圏の国々が漢字による共通の学術・文化をもっていたればこその話しで、さながら「漢文」がある種の国際共通語としての機能を有していたことを知るのである。

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【記事執筆:佐藤 保(お茶の水女子大学名誉教授・学校法人二松学舎顧問)】