第9回東アジア文化研究会「社会主義という資本主義的社会と資本主義という社会主義的社会―中国文化と日本文化―」(2008.12.3)

学術フロンティア・サブプロジェクト2 異文化としての日本          

2008年度第9回東アジア文化研究会
「社会主義という資本主義的社会と
       資本主義という社会主義的社会—中国文化と日本文化—」

   

報告者 代田 智明 氏 (東京大学大学院総合文化研究科教授)    

  • 日 時  2008年12月3日(木)18時30分〜20時30分 
  • 場 所  法政大学市ケ谷キャンパス
    ボアソナード・タワー 26階A会議室
  • 司 会  王 敏 (法政大学国際日本学研究所教授)

         安孫子 信 (法政大学国際日本学研究所所長)


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 中国と日本の現代政治経済を理解する上で、現在の体制や近代化の過程を理解するとともに、近世社会の基礎的文化を顧みる必要があるのではなかろうか。たとえば、中国は宋代以降、均分相続制のもと、世襲官僚制はなくなり、誰にでも自由に参加できる科挙による自由競争の社会が確立していった。これに対し、日本では、室町時代から田地の不足のため長子相続制が確立し、家の継続性を守る志向が強くなった。このため中国では、宗族とよばれる血縁共同体は、一方で相互依存と協働の機能をもちつつ、内外に競合意識を強めることとなる。同世代の親族は、仲間であるとともにライバルであり、宗族内部の下位分類である「房」や「系」も、かつまた宗族同士も、地域の中で競い合う存在であった。富は三代続かない、といった言い方が中国でなされるのは、このためであると言ってよい。また多様な文化習俗と言語をもった広範な地域が、近世という世界的に分割へ向かう時代に、ひとつの王朝体制を継続し得たのも、科挙制度による中央への上昇志向が紐帯となって、結びつけていたと理解すると分かりやすい。

 

同時に、宋代から王朝体制は大きく変化し、科挙を勝ち抜いた知識人つまり士大夫層の発言権が強くなった。一方、地域農村社会の発展により、農村は閉鎖的自給社会から、「半農半商」的社会へと移行し、商業的ネットワークが拡大していった。膨大な統治領域を擁する中央政府は、官僚の派遣による直接支配を行う余裕がなく、租税の徴収を担保する形で地方による自治に任せていくこととなった。実際、清朝後半においては8の経済圏のもとに集約されて、地域の末端に枝葉のように広がっていたという見解が有力である。これに呼応する形で、従来の儒教も「宗教改革」がなされた。朱子学の「理」と「気」の体系は、あらゆる人間が修行によって「気」を抑制し「聖人」になる可能性を示唆し、さらに明末以降、その「気」の要素である欲望についても、生存権にもとづく承認がなされていく。清代以降は、儒教は「礼教」として民間に普及し、科挙への基礎的教養を培うと共に、田土流失による混乱に陥りやすい地方秩序の「安全弁」としての機能を果たすこととなった。これに伴い、王朝体制の基幹をなしてきた「郡県制」(中央集権)に対して、「封建制」(地方分権)を主張する人々が現れ、この趨勢は太平天国の乱を収拾する形で生まれた、湘軍・淮軍につながり、地方の「郷紳」と呼ばれる階層の力量拡大をもたらした。省単位の結合が可能になっていた状況の中、鉄道国有化に反対する地元有力者の抵抗により、中央からの省の独立という形で、王朝体制は瓦解していく。その後この流れは、19世紀後半から強まっていった、西欧的近代化の圧力に対抗する形で、毛沢東なども参加した「連省自治」運動つまり分権的連邦制への志向に繋がっていくのだが、各階層の利害が対立して成功できず、孫文のもとで中央集権化を目指すこととなった。こうして中華民国による「統一」と日本の侵略によるナショナリズムの高揚を経て、人民共和国が建国され、近代国民国家が成立した。しかし、分権化かつ民間空間の拡大という、近世以来の中国的趨勢が消えたわけではなく、建国当初は5つの地域の分割統治が行われたし、その後集権化が図られた時期もあったが、文革の際は権限の地方への移譲がなされたため、その後の「改革開放」政策を後押しする結果ともなった。中国経済の「市場主義化」が本格化したのは、1992年の「南巡講話」以降だが、このころ世界的に「新自由主義的」なグローバル化が始まっており、近世中国以来の分権化された競合的上昇志向と、自由競争こそ社会の発展に寄与するというグローバル・イデオロギーとが、親和的に相互作用を起こし、中国経済に刺激を与え、急速な発展をみたことは理解しやすいであろう。ただしこれによって生じている、大規模な格差社会の現状については、重要な課題として今後、検討がされるべきである。

 

一方日本については、近世とくに江戸時代以降は、分権的幕藩体制と士農工商の身分制度であったところ、その内部における社会システムに「分」に安んずる調和的均一性が生まれ、これは明治維新後、近代国家形成に際しては、国家規模の均一性の強化へと結びついていった。中国が、集権に対抗して分権への趨向を強めていったのに対し、日本は集権への傾向を強めたのである。軍事的総動員体制の瓦解にともない、戦後はその均一的な文化傾向は、企業管理のなかに組み込まれ、日本的なコーポレートガヴァナンスを生み出す結果となり、1960年代の高度経済成長の原動力ともなった。要するに、株主中心ではなく従業員中心であり、年功序列による終身雇用制度、企業間利益の相互分配というシステムである。これをひとことで言えば実際の看板とは異なり、中国は競合性と上昇志向が埋め込まれた「資本主義的社会」と言えるし、日本は格差や差異を避ける「社会主義的社会」ということも言えるのではないか。日本が自由主義的グローバル化のなかで、むしろ立ち遅れたのは、こうした背景が推測されよう。21世紀に入って中国も「安定社会」を目指して、方向性を修正しつつあるが、金融危機を迎え、世界じゅうで経済社会体制の再考が求められている現在、それぞれの近代化を生み出した文化を基礎として検討する視点も重要であろう。

 

                【記事執筆:代田 智明 (東京大学大学院総合文化研究科教授)】