第2回国際日本学研究所学術研究員定例研究会(2007.3.23)

第2回学術研究員定例研究会 
■ソニア・デルマス 氏 (法政大学国際日本学研究所客員学術研究員)
 「山海塾の『とき』−時につきての哲学的考察−」 
■高橋 寿美子 氏 (法政大学国際日本学研究所学術研究員・大学院国際日本学インスティテュート博士後期課程日本文学専攻) 
「最後の江戸文人たち−明治根岸党の研究−」   
  • 日  時     2007年3月23日(水) 15時00分〜17時00分 
  • 場 所            法政大学市ヶ谷キャンパス 80年館7階 大会議室(角)
  • 司 会      相良 匡俊  (法政大学社会学部教授)


去る2007年3月23日(金)、午後3より法政大学80年館7階大会議室(角)において、第2回国際日本学研究所学術研究員定例研究会が開催された。

今回は、法政大学国際日本学研究所客員学術研究員のソニア・デルマス氏と同じく学術研究員の高橋寿美子氏による報告があった。(以下、敬称略)

前半のデルマス報告は「山海塾の『とき』——時についての哲学的考察——」と題して行われた。

2005年12月にパリで初演された山海塾の舞台『とき』の詩的注釈を通して、天児牛大(あまがつうしお)、ジル・ドゥルーズ、道元の「とき」あるいは「時」に対する考え方を形而上学的に考察したデルマス報告の概要は、以下の通りである。

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ソニア・デルマス氏と質疑応答の通訳をされた安孫子信文学部教授

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・天児の主宰する山海塾は日本よりも海外での評価の方が高い。山海塾の舞台が国際的に認められるようになったのは、仏教、とりわけ禅から受けた影響を舞踏という形式を通して表現することに成功したからである。

・ ドゥルーズは「直接的意識の絶対性において、いまだ到来せず、すでに到来した出来事が見られる計り知れない空虚な時間」を「垂直の時」として定義した。『シネマ2』において「時とは正法眼蔵」と書いているように、ドゥルーズの時の概念は道元の影響を大きく受けている。「空虚の形式」としてのドゥルーズの「正法眼蔵の時」のとは天児の「瞬間」のことであり、道元の「有時」である。

・天児にとって時は単に太陽の進行、「天空の運動の宇宙的時間」であるだけではなく、むしろ無常の形式である。時は太陽の進行を意味する「時」であるとともに、瞬間の「とき」とも不可分であり、流れなき−流れであるといえる。

・ 一方、道元が考えた絶対的現在は、時の流れなき流れと関係づけて理解されるべきである。「時の流れなき流れ」における流れとは継起の水平的な時であり、流れのなさは同時性の垂直的な時である。

・ このような道元の時間論を芸術の分野で体現しているのが天児の舞踏、とりわけ『とき』である。天児が、身体とともに、詩という言語表現によっても「時間」を表現しているという点は、注目すべきである。そして、極言すればドゥルーズがハイデガー的な道元理解から抜け出せないでいるのに対し、天児は道元が抱いた時間の観念そのものに迫ろうとしているといえるだろう。

 

後半に行われた高橋報告は、「最後の江戸文人たち——明治根岸党の研究——」と題し、明治20年代に東京根岸とその周辺に居住した文人の一団である根岸党の再評価を試みた。報告の概要は以下の通りである。

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高橋 寿美子氏

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・ 根岸党員は「飲抜無尽」や「二日旅行(会)」といった行事を催していたが、単なる社交団体ではなく、饗庭?村、幸田露伴、岡倉天心といった当時の一級の知識人も参加した研究団体でもあった。また、最年長の川崎千虎(1835-1902)から最年少の露伴(1867-1947)まで年齢層の幅の広さと、実際に江戸時代を生き、江戸の文物に親しんだ会員が多くいたことが特徴であった。

・ 根岸党には、欧米化に伴う江戸文化の衰退と旧弊視に対抗する形で、江戸文化を保存するという「好事」と「研究」の側面があったが、こうした特徴は、構成員の幅の広さと江戸文化の経験に由来するものであった。

・ 雑誌記事などを見る限り、遅くとも明治24年(1891年)5月には根岸党は文壇の一派として認識されていた。その背景には、根岸党の交友の中心となる顔ぶれのほとんどが文士であったことと、根岸党に関する記事が多くの新聞、雑誌に掲載され、人気を博したことが挙げられる。

・ 根岸党は、尾崎紅葉、山田美妙らが作った硯友社と人気を二分する結社であった。しかし、硯友社が文士のみで構成されていた文学結社であったのに対し、根岸党は文化人、実業家など多様な人物が参加した交友団体であったこと、さらに、根岸党員には江戸時代を直接知る世代が数多くいたが硯友社は明治時代に人となった世代の団体である、という点に大きな相違があった。

・交友、研究、文学など、あらゆる面において江戸的要素と遊戯的要素が強い根岸党の活動は、明治10年代までに急激に進んだ欧米化の潮流への反動の結果でもあった。しかし、明治27年(1894年)の日清戦争による「派手な行動」の自粛を求める世相と、政府による新教育の成果によって、次第に「遊び」ではない文学を求める「新しい読者」が誕生するとともに、文学の担い手が江戸ないし東京の出身者から地方出身者へと移ることで、江戸の気風を濃厚に残す根岸党は、「江戸時代まで」と「明治時代」の断絶を強調する「日本近代文学史」から排除されてしまった。

【記事執筆:鈴村 裕輔(法政大学国際日本学研究所学術研究員)】