第9回日中文化研究会「日中映画交流史のなかの日本映画人−川喜多長政と徳間康快の対応−」(2007.1.24)

第9回日中文化研究会 「日中映画交流史のなかの日本映画人」

  • 報告者       玉腰 辰巳 氏(早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士候補生)     
  • 日  時   2007年1月24日(水) 18時30分〜20時30分 
  • 場 所       ボアソナード・タワー19階 D会議室
  • 司 会   王 敏 (法政大学国際日本学研究所教授)


2007年1月24日、玉腰辰巳氏を講師に、第9回目の日中文化研究会が開催された。玉腰氏は、日大芸術学部を卒業後映画会社、中国留学を経て、早稲田大学大学院で日中の映画交流史を研究された方である。今回の報告は、「川喜多長政と徳間康快の対応」という副題のとおり、この二人にスポットライトをあて、日中両国の映画交流史を考察するものであった。報告では、映像も使用され、受講者の理解を図ってくださった。

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川喜多長政と中華電映

 玉腰氏の報告と氏が参考文献として紹介された佐藤忠男氏の「シネマと砲聲 日中映画前史」「日本映画史」「新世紀アジア映画」等の著作を読むことにより、川喜多氏の、戦前から戦争中の中国での映画制作等について多くの知識を得ることができた。川喜多氏の父川喜多大治氏は、陸軍将校で、清国の陸軍の育成に尽力したが、そのことを問題視する日本の憲兵によって射殺されたそうである。このことが、長政氏の行動原理の根本を形成しているように思われる。長政氏は、北京大学で学び、ドイツに留学、兵役を経て帰国。東和商事合資会社を設立し、ヨーロッパ映画の輸入、日本映画の輸出に従事。1939年、陸軍の要請により、上海にあった「中華電映」の副董事(副社長)に就任し、終戦まで実質的な責任者として職務を遂行。日本軍が中国で侵略行為を行っている時代に、川喜多氏らしい方法により中国で映画制作を行ったと評されている。「反日にならない範囲で中国人スタッフに勝手に映画を作らせたもので、中国の映画人たちに日本に協力する映画を作れと強要しなかった」(佐藤忠男氏)、「中国人の、中国人による、中国人のための映画という方針」(清水晶氏)の映画作りとの評価をされている。

徳間康快と日中映画交流

徳間康快氏は、徳間グループの創立者である。玉腰氏によれば、孫子等中国古典書籍の販売から、徳間氏の日中の交流が始まったとのことである。労働争議で読売新聞を追われた徳間氏は、元共産主義者として社会主義を目指す中国に期待し、また日中の国交回復・パンダブームの中で、新市場中国に期待をしたそうである。彼の考えは、文革以降の中国の体制の考え方とも一致し、日中の映画交流で大きな成果をあげた。その象徴とも言えるのが、「中国における日本映画の熟愛時代」(佐藤忠男氏)と呼ばれる時代での活動である。文革終了後の1978年10月に中国の8都市で日本映画祭(1991年まで続く)が行われ、「君よ憤怒の河を渉れ」「サンダカン八番娼館・望郷」「キタキツネ物語」などの作品が中国で上映された。多大な出費を負担しながら日本側で、この映画祭を続けたのが徳間氏である。また、彼は、日中国交回復10周年記念映画として、両国合作の大作「未完の対局」を制作した。この時期の日本映画の受容については、本研究会終了後読んだ劉文兵氏の「中国10億人の日本映画熟愛史」(集英社)に詳しい。とりわけ「君よ憤怒の河を渉れ」の熱狂的な受容は、劉氏の著作を読んでいても、その様子が生き生きと伝わってくる。1999年の調査では、中国人の約80%がこの映画を観たとのことである。DVDでこの映画を観たが、この映画が爆発的に中国の聴衆に支持されたのは、玉腰氏が説明されたように、中国政府の思惑(脱文革、思想開放、市場化経済)に合致したことにあると思う。戦後、日本でも、米国のテレビ映画を観て、民衆が米国流の生活スタイルに羨望をもったのと同様の現象が起きたとも言える。経済的に発展した国とそこに住む人々への憧憬という点で共通するものがあったのではないかと思う。昨今の韓流ブームとは異質な動向だと思われる。

報告を聞いて

戦前からこれまでの間の日中間の映画に関する交流は、川喜多長政と徳間康快という中国への共感をもつ人間によって成し遂げられたことが多い。相互の尊重と共感的理解が文化交流において如何に重要かを示す事例として、記憶に留めておく必要を感じた。大杉栄の虐殺の実行犯として有名な甘粕正彦氏が理事長を務めた「満州映画協会」(満州における映画の制作と配給、興行を独占的に行う、国策会社)の活動も含め、戦前から戦争中の中国やその他のアジア諸国・地域での日本映画活動の歴史的意義を問う作業が、今も継続されているとの印象をもった。なお、「川喜多長政の画策のもとに、東和商事株式会社の名で日本侵略下の華北地区に撮影斑を送りこみ、侵略戦争をあおる「東洋平和の道」を制作」(「中国映画史」程季華著)との評価もある。日中両国は、日本が中国を侵略するという不幸な歴史をもち、交流の中断を経て、1972年に国交は正常化した。文化交流は、政府を中心にした公式的な交流以上に、民間ベースでの交流が大きな意義を有する時代となった。民間交流は、交流に関わる個人や団体の個性によって正否が決まる面がある。玉腰氏の研究は、そのことを明らかにした。氏の研究の一層の進展に大いに期待したい。

【記事執筆:杉長 敬治(法政大学特任教授)】