【受賞者発表】第1回ヨーゼフ・クライナー博士記念・法政大学国際日本学賞 受賞者決定のお知らせ2015/10/20

第1回ヨーゼフ・クライナー博士記念・法政大学国際日本学賞 受賞者決定について

 このたびは、第1回ヨーゼフ・クライナー博士記念・法政大学国際日本学賞に多数ご応募いただき誠にありがとうございました。
厳正なる審査の結果、以下のとおり、受賞者1名を決定いたしました。おめでとうございます

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◆受賞者
   Tinello Marco (ティネッロ・マルコ) 氏 (ヴェネツィア カ・フォスカリ大学)

◆論文タイトル
   「琉球使節の江戸参府から見る幕末期日日本外交の変化―近世から近代へ―」
(『沖縄文化研究』41号, 2015年3月, 99-150頁)

◆SUMMARY

 琉球使節の江戸参府とは、琉球国王の尚氏が徳川将軍の代替わりを祝う慶賀使と、国王即位の礼を述べる謝恩使を江戸幕府に派遣したことを意味している。徳川時代、琉球使節は18回派遣されたが、最後の使節は1850年に派遣された琉球国王尚泰のための謝恩使であった。その後、第13代将軍徳川家定、第14代将軍家茂の将軍襲職の際にも慶賀使が計画されていたが、幕府は3回にわたって琉球使節の派遣延期を命じた。本稿は徳川幕府の視点から江戸参府の琉球使節の解体について検討を行った。また、琉球使節を通して明治政府の琉球の併合も検討した。先行研究によると、1709年以降において、琉球使節の一番重要な意味は、徳川将軍の「御威光」を高めるための外国使節であったとされている。筆者も基本的に先行研究に従うが、一方で、幕末の史料を検討することで、西洋人が日本に圧力を与えることによって琉球使節に対する幕府の新しい観点が見られるようになったということについて論じた。
幕末になり、西洋人から日本と琉球の本当の関係について問われた際に、幕府は自らの世界秩序観に従って、琉球の政治的な位置づけについて調査を行った。幕府は西洋人に対して琉球は「通信国」であるという論理から、「日本の遠境の属国」・「日本の属国であるが、日本国内ではない」という説明を行っていたが、その後、琉球を「日清両属」という位置づけに変更した。琉球問題に対する幕府の態度は決して消極的なものではなく、琉球の政治的な位置づけについての問題は幕府内部の真剣な政治討論の課題となった。日本外交の性格が変わっていく過程で、琉球使節も新たな視点で見られ、徳川将軍の御威光を高めるという目的の外に、琉球が日本の支配下にあることを対外的に主張するための根拠としても位置付けられるようになったと考えられる。
琉球使節というレンズを通して見ると、明治政府による琉球の併合は、1840年代に西洋列強が日本を開国させるために、幕府に対して日本と琉球の本当の関係について説明を求めたことから始まった、一連のプロセスの結果であったことが窺えるのである。幕末において幕府がイギリス政府に明らかにした琉球の「日清両属」という位置づけは、1879年に沖縄県が設置されるまで完全には廃止されなかった。また、幕府は西洋列強に対して日本の琉球支配を示すための証拠の一つとして琉球使節を考えていたが、明治政府は国際法に基づいて清朝側に対し、「法律」・「租税」・「内政」に関わる「実効」の領域にまで薩摩藩の琉球支配は及んでいたとした。そして、琉球の島酋および三司官が薩摩藩主に対して約していた誓書を提示することで日本が琉球に完全なる主権を有していることを主張したのである。
本稿において論じた1860年代の琉球使節の解体は、一見したところ幕末において小さいイベントだと思われるかもしれないが、その解体の背景にあった史実を詳しく探ることによって、違う歴史が見られる。従来、幕末に関する研究において「幕府と薩摩藩」、「幕府と西洋列強」、また「清朝と西洋列強」などそれぞれの関係が主に検討の対象となっていた。しかし、琉球の政治的な位置付けを中心において外交を考えてみると、当時幕府、薩摩藩、清朝、西洋列強の歴史が連動して動いていたことがより見えてくると私は考えている。

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なお、授賞式および記念講演会を12月に開催予定です。
詳細につきましては、あらためてご報告させていただきます。

(※2015.12.21追記)
授賞式および記念講演会を12月12日(土)に開催いたしました。詳細はこちら

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